多良海道は、江戸時代に佐賀藩主らが長崎警備に向かうために往来していた街道で、多良通・多良往還・湯江往還・諫早街道などとも呼ばれています。その道程は、多良岳東側のすそ野、有明海沿いを通る路で、永昌宿(諫早市)〜【3里】〜湯江宿(諫早市)〜【4里】〜多良宿(太良町)〜【3里7町】〜浜宿(鹿島市)〜【2里1町】〜塩田宿(嬉野市)の5宿を結ぶ約48㎞のルートとなっています。途中、湯江追分(写真)からは山あいのルートと有明海沿いのルートの二手に分かれ、多良宿で合流します。有明海沿いのルートは「竹崎街道」と呼ばれています。
多良海道は、江戸時代に佐賀藩主らが長崎警備に向かうために往来していた街道で、多良通・多良往還・湯江往還・諫早街道などとも呼ばれています。その道程は、多良岳東側のすそ野、有明海沿いを通る路で、永昌宿(諫早市)〜【3里】〜湯江宿(諫早市)〜【4里】〜多良宿(太良町)〜【3里7町】〜浜宿(鹿島市)〜【2里1町】〜塩田宿(嬉野市)の5宿を結ぶ約48㎞のルートとなっています。途中、湯江追分(写真)からは山あいのルートと有明海沿いのルートの二手に分かれ、多良宿で合流します。有明海沿いのルートは「竹崎街道」と呼ばれています。
佐賀藩主は、佐賀城〜長崎を往来する際、多良岳西側を通る長崎街道、東側を通る多良海道のどちらも通行していました。長崎街道が大村藩内を通り、また、長崎奉行やオランダ商館長などの要人が通るため宿や荷馬などの確保が煩雑になる一方、多良海道は全ての道程が佐賀藩の領地内を通り、また、諫早の光江津や太良の竹崎津(写真)など有明海の海上交通の重要な津(港)とも接続していたため利便性が高く、長崎警備への往来、物資や情報の伝達に活用されました。
現在は、時代の変化と共に舗装されている箇所も多くあるものの、大越(諫早市高来町)や長坂(諫早市小長井町)には、写真のような土道(つちみち)や道幅を示す石積、史跡などが残り、往来当時の街道の雰囲気を感じることができます。令和元年10月には、大越(諫早市高来町)~七曲~長坂~山茶花茶屋(諫早市小長井町)~船倉~矢答峠(佐賀県太良町)、小川原浦(諫早市小長井町)の2区間が文化庁「歴史の道百選」に選定されました。